COLUMN / INTERVIEW コラム・取材記事
広島県におけるスポーツの意味とは
皆様、こんにちは。広島経済大学経営学部スポーツ経営学科教授の藤口光紀です。
私は日本代表のサッカー選手、そして、プロサッカークラブの経営者としての活動を経て、現在はスポーツの世界を志す学生たちに、スポーツビジネスやクラブマネジメントについての講義を行っています。
もともと群馬県で生まれ育った私ですが、今年で広島生活もちょうど10年経過です。
故郷と同じくらい愛するこの地へ、スポーツのチカラを使って貢献するにはどうすればよいか? を常に考え続けています。
今回は、私が辿ってきたアスリートとスポーツビジネスの二軸の経験と共に、スポーツでつくる広島の未来、そして、これからのスポーツのあり方についてお話をさせていただきます。
スポーツに出会った学生時代
私がスポーツの世界に足を踏み入れるきっかけとなったのは、高校時代にサッカーと出会ったことでした。
最近のプロサッカー界には小学生の時からサッカーを親しんでいる選手が多く、高校から始めたと聞くと、少し遅いのではないかと思う方もいるでしょう。しかし、私の学生時代は、プロ野球以外のスポーツがまだ市民権を得ておらず、サッカーのルールすら知らずに中学校を卒業することになったのです。
そんな中15歳の私に転機が訪れます。入学した高校にサッカー部があったのです。
入部当初はドリブルすら上手くできなかった私に、その後サッカーの師となる部活動の顧問の先生が熱心に指導してくださいました。サッカーの面白さを知った私は、みるみるうちに練習へとのめり込んでいき、日本のトッププレイヤーになりたいという思いに駆られます。
高校卒業後、一年の浪人生活を経て進路先として選んだのが慶應義塾大学でした。入学後は慶應義塾体育会ソッカー部※に入部、レギュラー入りを果たします。ちょうどその頃、1968年のメキシコオリンピックで銅メダルを獲得し日本のサッカー界は新しい人材を育成することを重視、アンダー24の日本代表選手の選抜を開始することになったのです。集められた何百人もの若手選手たちのなかに私も参加することとなり、幾度となく選抜が行われました。そして、ついに夢にも見た日本代表を、私は勝ち取ったのです。代表となったことで、海外での試合に臨むため、私はハンガリーとドイツへ初めての遠征で行くことになりました。初めて乗る飛行機と、初めて見る海外の地は、まだ大学生の私の心を刺激してくれました。
大学卒業後は選手を続ける傍ら、三菱重工業株式会社へと入社します。仕事をしながらも、日本のサッカー環境をなんとか良くしようと、それこそ毎日奮闘していました。試合への出場を続けていましたが、32歳の時に膝に負った怪我をきっかけに引退を決意することに。
その後は、日本でサッカーのプロサッカークラブを作りたいという悲願を胸に「浦和レッドダイヤモンズ」の立ち上げに、事業広報部長として加わりました。また、その後、Jリーグで事務局次長・理事を務め、日本のサッカー界の変遷を肌で感じてきました。
※ソッカー部:大学から部の公認をもらう際、“サッカー”ではなく“ソッカー”に発音が近いという初代主将の説により、慶應義塾体育会ソッカー部が正式名称となった(諸説あり)
Jリーグで見出した地域に根づくクラブ経営とは
1992年に浦和レッドダイヤモンズを立ち上げて以来、クラブを運営していくにあたって、私たちが最も大切にしてきたことがあります。それは「応援してくれるサポーターの方々とのコミュニケーション」です。
クラブの立ち上げ当初となると、クラブを強化する方法や、いかに売上を作るかに気が取られてしまうことがあります。しかし、私たちはサポーターの方々とコミュニケーションを取ることによって、地域に根ざしたクラブ作りを目指したのです。
地域に密着したクラブ経営で思い出すのは、埼玉スタジアムにおける試合での出来事です。
いざ、スタジアムでの試合を目の前にしたとき、チーム全体に「勝たなければいけない」という強い気持ちが生まれていました。けれども、勝つことにこだわり過ぎていては、サポーターの皆さんとの連携ができなくなってしまうと考え、別の目標を立てることにしたのです。
その目標とは、「スタジアムを浦和レッドダイヤモンズのカラーである赤色でいっぱいにする」ということでした。
試合当日、新しく立てた目標が功を奏します。スタジアムや周辺のマンションのベランダにまで、応援を意味する赤色のタオルやユニホームが溢れんばかりに輝いていました。風に翻る赤色が選手とサポーターの情熱を表しているようで、この上なく感動したものです。そしてそれが2006年のJリーグ初優勝に繋がったのです。
スポーツとなると、勝利にこだわり過ぎてしまい、応援の声が耳に入らなくなってしまうことがあります。プロリーグであるJリーグであれば尚更のことです。しかし、多くの人々が応援してくれるスポーツだからこそ、地域に根ざしたチーム・クラブ作りを志していかなければならないことを、私はこの時に改めて強く実感しました。
誰もがスポーツを楽しめる環境作りを目指す
私はその後もクラブ経営やスポーツマネジメントに関わり続けました。そして、これからのスポーツビジネスを支える人材を育てなければならないと考えたことから、広島経済大学の教壇に上がることを決めます。
私が広島生活を始めたのは、2011年。忘れることない東日本大震災が日本を襲った年です。生命の危機を感じるような地震を経験して以来、かつて原爆の被害から奇跡的な復興を遂げた広島に特別な思いを馳せるようになりました。
スポーツという視点で改めて広島を見たことで、一つの問題点が浮かび上がってきました。広島には、思った以上にスポーツをする環境が整っていないこと
そして、今日ある平和都市としての広島の姿を、スポーツによって少しでも豊かにしていきたいと心の底から考えるようになります。
「広島カープ」や「サンフレッチェ広島」など、全国的に有名なスポーツ資源があるのにも関わらず県民が気軽にスポーツができる場所がないとは、不思議なことです。遠因として、広島にはスポーツに対する熱意が強い指導者が多くいたため、そんな指導者たちの力にいささか頼り過ぎていたのでは、と考える時があります。ですから、これからの目指すべき先は「熱意ある指導者と自治体が互いに協力できる環境作り」です。これが大事です。
スポーツによって、誰もが住みやすく、笑顔でいられる街づくりを、生活している人たちと一緒に、取り組んでいきたいと思います。
コロナ禍で再確認したスポーツの価値
今回の新型コロナウイルスの災禍によって、今後のスポーツの在り方が問われています。世界中で無観客試合が開催されるなど、着実に未来へとステップアップしているはずです。しかし、同時に人々の生活からスポーツが消えた瞬間があったことも事実です。私自身、平和で健康な状況でないとスポーツはできないのだと改めて痛感しました。それでも、スポーツのある世界は人々を元気づけ、結果的に平和を呼びます。
コロナ禍の中、再認識したスポーツの力を最大限に発揮できるよう、自分にできることをこの広島の地でやり続けていきたいと思っています。
藤口光紀
Mitsunori Fujiguchi
広島経済大学経営学部スポーツ経営学科 教授
SAH アドバイザリーボード
新島学園高等学校サッカー部で活躍。一浪して慶應義塾大学に入学。慶應義塾大学体育会ソッカー部で1年生の秋期リーグからレギュラーを獲得し、1969年に大学選手権優勝。在学中に日本代表に選出され、卒業後の1974年、三菱重工業株式会社に入社。
日本サッカーリーグで活躍し、通算成績は127試合出場・27得点。日本代表として国際Aマッチ26試合出場の後、1982年に現役引退。引退後は慶應義塾大学ソッカー部監督、浦和レッドダイヤモンズ事業広報部長、Jリーグ事務局次長、日本サッカー協会技術委員等を歴任し、2006年6月浦和レッドダイヤモンズ代表に、2009年4月退任の後、2011年4月より広島経済大学経済学部(現経営学部)スポーツ経営学科教授として赴任。
【著書】
共著「スポーツで地域をつくる」(東京大学出版会 2007年)
共著「スポーツで地域を拓く」(東京大学出版会 2013年)
【主な講演テーマ】
・戦う集団におけるチームワークと組織づくり
・「Jリーグ百年構想」・・・スポーツでもっと幸せな国へ・・・
・フットボールは世界の共通語
・たかがサッカー、されどサッカー(Just FOOTBALL But FOOTBALL)
【教室】
・藤口光紀のサッカー教室(対象:ジュニアからシニアまで)
・さかさかサッカー(芝生の斜面を使用してのサッカー)