COLUMN / INTERVIEW コラム・取材記事
フットサルとの出会い~絶対に諦めない挑戦~
村上哲哉と申します。出身は山口県の宇部市です。現在フットサルF2リーグに所属する「広島エフ・ドゥ」の監督をさせて頂いてます。選手としては元フットサル日本代表キャプテンを務めました。まずは自己紹介をさせて頂ければと思います。
子供のころ、毎日ボールを蹴っていました
サッカーを始めるきっかけは3人兄弟の長兄がいつも、学校が終わると近くの友達を誘ってサッカーをしている姿を見ていて「楽しそうだな、僕も一緒にやりたいな」と思ったのが最初のきっかけです。幼稚園の頃からですが、とにかく毎日毎日ボール蹴っていたのを覚えています。
小学1年生からスポーツ少年団に入ってサッカーを続けて、小学校高学年位に将来プロサッカー選手になりたいなという、大きな夢を持ち始めました。
中学校の所属チームは強くありませんでしたが、僕自身はずっと山口県の選抜に3年間入らせていただきました。中学校2年生の時には、両親には大反対されたんですが、夏休みに1ヶ月半くらいブラジル留学をさせてもらったのです。
当時ブラジルはサッカー王国。テレビで見るような、アスファルトの道路の上でボロボロのボールを子供達が楽しそうに蹴っている光景は、日本育ちの僕には衝撃でした。
あきらめた夢、フットサルとの出会い
高校進学では山口県の高校。何校からオファーがあったんですが、全国的に強いチームに行かないとプロになれないなと思ったので、結論として福岡県にある現在は名前が変わってしまったのですが、東海大学第五高校にテストを受けて入学しました。
しかし、そこで1年生の時に初めてこれまでずっと楽しかったサッカーが楽しくない、辞めたいという気持ちになってしまったのです…。1年生から試合に出場してプロへ行くことをイメージしていましたが、そんなに現実は甘くなかったのです。全国から選抜チームの生徒が集まってくる高校です。レベルが高い中で、僕のレベルの現実はCチーム。1番下のチームからのスタートでした。
高校時代は寮生活で近くに両親も兄弟もいない。相談できる仲間がいない。その状況がすごく辛くて、初めて大きな挫折を味わいました。そこで、自分の頭の中をよぎったのが、小さい頃に父親に教えてもらったことでした。
「悔しかったり、うまくいかなかった時に、そういったものを乗り越えられるためには常に努力、そしてたくさん練習すること」
この一番下のチームから何とかAチームに登り詰めてやる!と考えるようになったのです。
強豪校だったのでナイター設備もありましたし、朝も夜も練習し続けました。2年生の初めくらいです。当時のACミランの下部組織から来たコーチが3年契約で就任しました。そのコーチが僕が当時所属していたBチームの試合を見にきて、僕のことを気にかけてくれてAチームに上げてくれたのです。そこからとんとん拍子でメンバーに選ばれ試合にも出場できるようになっていきました。
しかし、高校の同級生4人にJリーグにオファーがあったのですが、僕にはオファーがまったくない状況でした。でも、夢を叶えたいという強い思いがあって監督に直接話をして、Jリーグのテストを受けさせてもらいました。それでも、結局不合格…そこで大学進学の道を選択しました。そこでフットサルとの出会いが待っていたのです。
Fリーグが開幕!!
大学に進学すると、またサッカーがしたいという思いに火がつきました。そこで出会ったのがフットサルだったのです。ただ、当時はフットサルというよりミニサッカーという感じです。体育館で友達と遊び始めたのが、フットサルを始めたきっかけです。
これが凄く楽しい!たくさんボールも触れられる。チャンスもサッカーに比べたら多く、攻守の切り替えが早いスポーツです。自分で調べたのですがフットサルにも日本代表があったのです。当時はFリーグはまだ開幕しておりませんでしたが、サッカー選手という夢をあきらめ、次のステップへ進もうと切り替えました。新しい夢はフットサル日本代表になってW杯に出場する。新たな夢への挑戦がはじまりました。
そして、僕が25歳の時に遂にFリーグが誕生しました! リーグ開幕の2年目、Fリーグシュライカー大阪よりオファーをいただき、26歳の時にプロデビューをしました。
26歳で新たな挑戦がはじまると、入団後すぐにビッグチャンスがやってきます。当年12月に開催を予定されていたフットサルワールドカップのブラジル大会です。
挫折のすえ、日本代表へ
当時の日本代表はブラジル人のサッポ監督が率いていました。W杯の直前合宿に入っていたベテラン選手が怪我をして、僕が追加召集されたのです。結果として、アピールはしたのですが、さすがにハードルが高く落選しました。
悔しさを胸に、ブラジルでの仲間が戦うW杯を日本でテレビ観戦しました。結果は、予選敗退という形で終わりました。
そこから日本代表の体制がサッポ監督からスペイン人のミゲル監督に変わりました。そのタイミングですぐに代表にピックアップされて、2009年からはずっと日本代表に入ることができました。2010年ウズベキスタンであったアジア選手権で初めて日の丸を付けて出場、大会は準決勝でイランに大敗して終わりました
怪我をしても、絶対に諦めない
そこから2012年のW杯を目指していた中でした。年の初めに大きな怪我をしてしまったんです。代表の合宿中に右側の内側側副靭帯を怪我しました。部分断裂でドクターからは全治6カ月くらいと告げられました。
2012年W杯を兼ねたアジア選手権が始まるところだったので、絶望感と、またもチャンスを掴み取れないのかと思っていたのです。でも、その時でした。チームのトレーナーや仲間が支えてくれました。この時、初めて仲間の大切さや応援してくれている仲間が近くにいるんだということを、大きな怪我を通じて感じられたのです。これが本当大きな体験でした。3ヶ月半でテーピングをガチガチに巻いて、ピッチに戻ることができて、2012年のアジア選手権に滑り込むことができました。
2012年のW杯に出て僕は引退しようと思っていました。W杯から1年後に、W杯で共に戦った日本フットサル界のレジェンド木暮賢一郎氏がチーム監督になると発表され、木暮監督から「3年計画でリーグのタイトルを取りにいく。一緒に戦ってくれ」と言われました。そして理想の形で3年後に常勝チームだった名古屋オーシャンズを倒して、初めて名古屋以外のチームがタイトルを掴み取り、僕は引退を決めました。
広島エフ・ドゥでの挑戦、始まる。
引退後、チームに残って欲しいというオファーもあったり、また有り難いことに沢山の選択肢を頂いたのですが僕が大学の時に本気でフットサルを始めたきっかけが、実は「広島エフ・ドゥ」だったのです。
岡山の大学から週末、高速を走らせて広島まで1年間通っていました。そして関西や関東はリーグもしっかりしているし、子供たちのフットサル教室もありますが、中国・四国はそういったところで遅れていました。指導者もいない、普及活動する人もいない。そんななかで何とか先駆者として経験値を子供たちなどたくさんの人に落とし込みたく、広島に帰るという決断をしたのです。
当時はスクール事業等、0からの立ち上げの作業になることはわかっていました。いろんな不安やリスクもありましたが、でもこれまでの経験値を生かせるのであれば勝負するしかないと決断しました。そのタイミングで広島から監督のオファーがあり、監督をしつつスクール基盤を広げながらだったためだいぶ奔走しましたが、思い出のあるチームで何か広島ために中国、四国地方のために何か大きくできればいいなという思いでスタートしました。就任してから今季で5年目を迎えました。
僕が選手を離れて指導者やチームの運営という立場から見るようになって、以前のことを振り返るようになりました。
思い出されることのひとつに、2012年W杯に三浦知良選手と一緒に出させてもらったこと。あの時が1番お客さんも増えて、凄く盛り上がっていた。そこからFリーグ認知度、集客が伸びないなかで「何か広島から変えたい」という思いがずっとあります。
まずは選手の意識改革、応援される選手になろうというところから始めていく。今では選手がYouTubeやインスタライブでこういった企画をやりたいとか、そういう声をもらえるようになり、僕も一緒に企画に参加しています。そうすると少しずつですがお客さんが増えて、ファンクラブが増えている状況になりつつあります。
しかしチームの結果はF1を目指すなかでF2で優勝しないといけないのですが、昨年はリーグ3位で上位2チームに対してなかなか勝てないシーズンでした。選手の技術レベルや監督としての力もそうですが、力の差を実感しています。
僕は選手と一緒に地元に密着して、地元の企業、地元の人から応援されるチームを理想としている中でそこに関してはまだまだゴールは遠いですが少しずつ走れているのかなという実感や手応えがあります。
何よりも応援してくださる皆さんのパワーが自分もモチベーションです。自分に何ができるのか、何を伝えられるのかここを追求し前へ進みたいと思います。
最後にオリンピック・パラリンピックは4年に1回のスポーツの祭典であることは間違いないと思います。僕もこういったコロナ禍の状況を経験する中、スポーツでしか伝えられないこと、スポーツの力を改めて実感しています。オリンピック選手たちはモチベーション、コンディションの維持がとても難しい状況ではあると思いますが、オリンピック開催にむけて準備していただき、たくさんの方々にスポーツを通じて感動と勇気を届けてほしいと強く思っております。またフットサルはオリンピックの種目にはまだ入っていませんが、いつか種目になることを信じています。
フットサルは老若男女、少人数でできます。少子化になっていく中で重要なスポーツの1つではないかなと感じています。誰もがゴールを決めるチャンスがあって、誰もがゴールを守れて、みんなで楽しめるというのが最大の魅力です。
ぜひ皆さんお友達を誘って1人でも多くの方にプレーしてもらいたい! そして興味が少しでもありましたら是非僕たちの試合を見にきてもらえたら嬉しいです! 攻守の切り替えなどサッカーと違った魅力があると思います。
Fリーグディビジョン2は5月22に開幕し、5月23日(日)にアウェイでリーグ初戦を迎えます。ホーム開幕戦は5月29日(土)vsポセイド浜田戦です。新型コロナウイルス感染症感染拡大防止の為、ファンクラブ会員様、スポンサー様限定での入場となりますが、Fリーグディビジョン1昇格へ奮起する選手のプレーを、ぜひ会場で観戦いただきたいです。(ファンクラブ入会受付は5月21日までとなっております。)広島をフットサルで変える、フットサルで変わる、このメッセージを根付かせれるように、私自身の経験をすべて注いで参りたいと思います。
村上哲哉
Tetsuya Murakami
広島エフ・ドゥ 監督
山口県宇部市出身。学生時代はサッカーに励み、大学時代にフットサルに転向。Fリーグ・シュライカー大阪に入団し、Fリーグオーシャンアリーナカップでの優勝や全日本選手権での優勝を経験。また、フットサル日本代表として、2010年・2012年 AFCフットサル選手権に出場し、2連覇を達成し、FIFAフットサルワールドカップではベスト16入りを果たす。現役引退後は、指導者として中四国地方を中心にフットサルの普及に尽力する。